熊野・居合神社と居合道
熊野神社と居合神社 居合道
出典引用‥正統会々報(正統会本部)
INDEX ①由緒・沿革 ②林崎甚助源重信公 ③居合とは
①由緒・沿革
本社略縁起に依れば、大同二年(807年)奥州出羽の国(現・山形県)奥羽山脈山麓に、山岳信仰天台修験の熊野信仰により、石城獄の南に続く株倉山の峰近い山腹の岩窟に、「熊野権現」が明神として祀られたのが現、「釜ケ澤大明神」の草創期であると伝えられている。
その後、大倉郷岩神山麓の「荒宿の地」に、株倉山の岩窟より「熊野権現」が降神「熊野堂」(上熊野堂・中熊野堂・下熊野堂)として石祀に祀られ村里にて住民に永く信仰された。
(降神年代不詳)「荒宿の地」は、大倉村林崎地区(現、山形県村山市林崎)の東北二キロ米に位置す。 現在は岩神山麓の「旧荒宿村跡」に「中熊野堂」通称(中熊堂)のみが残され現存するのみである。
「熊野権現」は永承年中(1046年)から正安二年(1,300年)の間に、現在の林崎の地(現・山形県村山市林崎)に遷座。
祖神「熊野明神」として地元民に崇敬、信仰された。天文二十三年(1554年)林崎に鎮座せし、祖神「熊野明神」に抜刀の祖・浅野民治丸(林崎甚助源重信公)が祈願参籠し修行に励み、弘治二年(1556年)祖神「熊野明神」より「神妙秘術の純粋抜刀」の奥義を神授され、父の敵討ちを果たした。
爾来、祖神「熊野明神」は、「武神」として諸藩の武士から尊崇され、明治時代に村社・祖神「熊野神社」となった。
居合道始祖・林崎甚助源重信公②林崎甚助源重信公
大永七年(1527年)最上家一族の「最上因幡守満英」楯岡城主、六代目の家督を相続する。天文七年(1538年)浅野数馬源重治(京で尉北面の衛士(武士)であった)、楯岡城主、六代城主「最上因幡守満英」に仕官す。
天文九年(1540年)浅野数馬源重治、楯岡在の高木某の娘菅野(志我井)と結婚す。
天文十六年(1547年)父、浅野数馬源重治は、熊野明神(通称・林崎明神)の祀官の許へ碁を囲みに行き、夜更けて帰る処を如何なる理由で恨みをかったのか、坂上主膳(坂上一雲斎)に闇討ちにて暗殺された。(暗殺原因は判明せず)爾来、数馬の一子「浅野民治丸」(林崎甚助源重信公)と母・菅野(志我井)の仇討ちの苦難の道が始まった。
天文二十三年(1554年)浅野民治丸十二歳の時、仇討ちの為剣法の上達を林崎の祖神「熊野明神」(通称・林崎明神)に祈願参籠し修行に励む。
永禄四年(1561年)重信、京で宿敵、坂上主膳(坂上一雲斎)を討ち果たし見事本懐を遂げた。
(重信公19歳)京で仇討ちを果たし直ちに帰郷。祖神「熊野明神」(通称・林崎明神)に礼賛報告し「信國」の刀を奉納す。
③居合とは居合の起源は、今から約470年前奥州(山形県村山市大字林崎)最上家の家臣、浅野数馬源重治の嫡男・民治丸(後の林崎甚助源重信公)が始祖と伝えられています。居合とは、敵と居合わすの意味で立会いに対する言葉で居相・鞘の内・抜合・抜剣・抜刀術などとも言われ斬撃剣の如く抜きあわせて勝負するものでなく機先を制して敵に一撃を与へ敵の出方に応じてこれに又一撃を加える業である。敵の不意の攻撃に対して一瞬の間もおかず居合わせて抜刀し敵に勝つ、鞘離れの瞬時の一刀で相手を圧する心意気を持って相手を制する武士道の剣技である。現代の近代居合道においては、幼稚園児からシルバーエイジ迄老若男女誰でも行える現代の真の武士道として心・体・技三位一体化の境地を追求し、精神と肉体のバランスのとれた人間形成を目指しています。